-生の謳歌-

ネクラ(根暗)な50過ぎの男である自分がみる「生」は、仏陀が言われたように「苦に満ちている」ようにも思われます。ただし、ここで言うネクラとは普通に言われるのものとは少し違うことに注意が必要です。

 

対極にあるネアカ(根明)の話をすればわかり易いでしょう。それは「何をしても楽しく感じられる」生来の性格です。人間である以上悩んだり、苦しんだりすることもありましょうが、基本的に「ただ生きること」を楽しむことの出来る人たちのことを指すのです。

 

「箸が転んでもおかしい年頃」という言葉があります。普通、思春期の女の子に使われ、ちょっとしたことでもよく笑う年ごろの年齢を指しますね。そのネアカ体質は年齢や性別と関係しているかもしれませんが、それらに関係なくネアカ体質の人たちは確かにいるようです。

 

ペットの餌を買うためにペット屋さんに行くと、子犬たちが何でもないことを「遊び」にしているのを目にします。子犬同士でじゃれ合ったり、自分のしっぽを追い回したり、飛び上がったり。与えられた生を精いっぱい楽しんでいるように見えます。

 

僕なら狭い部屋に閉じ込められ、あっという間に精神に不調をきたすに違いありません。

 

僕のようなネクラな人たちはおそらく何でもないことを楽しむことが難しいのです(ま、酒が入れば状況は変わります)。少なくとも僕はそのために仕事や趣味、あるいはライフワークの中で自分なりに目標を設定してそれらに突き進むのです。そうすることによって充実感やら達成感やらを享受して「楽しむ」ことが出来るのです。

 

あるいは人によっては、ネクラな人たちがときに感じざるを得ないと思われる空虚感とでもいうようなものを埋めるために、ギャンブルや酒におぼれていく人たちもいるでしょう。ネクラな人たちにとって、生きることはたやすいことでは決してないわけです。

 

しかし一方、不思議なもので人は、楽しげに過ごす存在-身の回りの人やらペットやら-を眺めていると、少なからず自分も幸せになってくるものです。

 

アーネスト・ヘミングウェイの短編小説『兵士の帰郷』で、「(そのうちの一人を手に入れるのはめんどうでそれに見合う価値はないけれど、)女の子たち皆を眺めるのが好きだった」という下りがあります。

 

彼の見る女の子たちは兵士自身とは住む世界が違い、自分にはない別な何かを持っているからこそ、「眺めるのが好き」、つまり明るく天真爛漫(に見える)女の子たちを眺めることによって兵士自身も楽しい気持ちになるからなのではないでしょうか。

 

ともあれネクラな人種がこの生を楽しむためには、いろいろ工夫して思惑せざるをえないわけで、それだけ苦労はします。けれど、その生はより充実したものになりうる芽を持っているとも言えます。

 

「ただ生きる」よりは、何であれ切磋琢磨して向上を図る生き方の方が生産的で、人間らしいとも言えるからです。

 

ただし下手をするとネアカな人たちが決してしない自死という選択をもネクラな人たちはしかねない存在です。これもまた人間らしいとも言えはするのですけれどね。

 

僕の考えでは芸術家とはネクラな人たちの集まりみたいなもので、物事をとことん突き詰め、練っていき、自分なりの「作品」を作り上げるのだと思います。

 

そして、この芸術家という人たちには実際、自死も多いんですね。作家だけにしても、(僕の好きな)三島由紀夫・川端康成・芥川龍之介あるいは先ほど話しましたアーネスト・ヘミングウェイもしかりです。

 

タイの友人が僕にこう言ったことがありました。『考えすぎるんじゃぁないよ!』と。しかし、僕は当然ながら僕自身が一番よく見えている面があって、むしろ考えないと落ち着かず大げさに言えば自分自身のアイディエンティティが脅かされることをもよく知っているのです。

 

結局のところ、大事なことは人は様々であり、僕には逆に考えを突き詰めることが僕にとっての生を謳歌する方法なんだと受け止めているのです。

 

50年も生きていれば、人生の酸いも甘いもそれなりに体験します。仏陀の言われたように確かに「生」は苦に満ちているかもしれません。しかし、「暗闇があるところにこそ光がある」とも言えるはずです。

 

なぜなら僕たちの存在の主体である魂は意識がその中心にあり、その意識もモノではなくとも物理法則にかなったものであると考えるからです。