-「死」について-

我々は皆いずれ死にます。それは誰しも避けられないことです。死に関しての人々の想いは様々でしょうが、確実に死ぬのです。

 

僕自身ときに当惑するのは、死ぬことを『可哀そう』と表現する人たちがいることです。もちろん若く元気な心身を持ちながらも、何らかの事故や事件に巻き込まれ命をなくすならばその通りでしょう。

 

しかし、高齢になるなどで肉体かつ人格を形成する脳機能つまり記憶・思考が不自由になった場合、生き続けること(ただ生きること)が果たして自然の摂理にかなうもので、もっと言えばそれが幸せなことなのでしょうか。

 

仏陀は四諦(見極めた4つの真理)の一つに苦諦、つまりこの世は苦に満ちているものだと悟り、別の一つには集諦、その苦の原因は煩悩や物事への執着によるものだと考えました。

 

また、ギリシアの賢人ソクラテスは、『死を恐れることは知らないことを知っているかのように思うことで、知恵がないものの考えることだ』とし、さらには『死は本当はすばらしいものなのかもしれない』とも述べています。

 

僕自身案外この点に関して早熟なのか何なのかわかりませんが、小学校のときに別に何かがあったわけでもないのによく自分が生きていることへの絶望のようなものを感じ取り、押し入れの中に入って悶々としていた記憶があります。「生の殻」から抜け出せない苦しみのようなものを幼くして確かに感じ取っていたのです。

 

たとえば野生の動物たちにとっては生とは常に死と隣り合わせであり、いつ文字通りの「弱肉強食」の餌食になるかわからないものです。しかも彼らは何も持たず体一つで生涯を生き抜きます。

 

人間も動物のうちの一種であり、僕は本来人が生きる基本もこの野生の動物のような状態にあるのかもしれないと感じることがあります。なぜなら生きることは他の動植物の命をも頂いて生き続けているわけですから。

 

ただし明らかに人間がほかの動物たちと違う点は、言葉を操ることです。よって人は動物たちと違い、今現在だけではなく現在を未来とつなげて生きることが可能になります。人間社会では財産の貯えや商品としてのさまざまな保険(年金もそうですね)という形で、例えば老後に対する準備が出来ますし。

 

でもそこで、特に高給をもらっていたり社会での金儲けがうまかったりする人達の中には現状の安泰だけでは満足できず、一生安定した生活を送るべくそれなり若いときからそのことを画策している人が出てくるわけです。どうも僕はここに何か違和感あるいは傲慢さを感じることがあります。

 

というのも今の日本社会はあまりにもこの点、つまり金を貯めこむことや変わらぬ将来の保証やらが意識され過ぎていて、本来の生あるいは自然の摂理からかけ離れてきているように感じるからです。

 

僕がタイで知り合ったほとんどすべての人たちは仕事をする傍ら、仏教徒としての行いや僧に対する敬意を忘れませんでしたし、今もそうでしょう。僧侶たちは三衣一鉢と呼ばれる黄色い袈裟や食べ物をもらい受ける入れ物などの最低限度の持ち物しか所有せず、さまざまな戒律の下で日々を送ります。

 

また、ISIS(イスラム過激派)などの影響で悪い印象を持たれることの多いイスラム教もラマダーンと呼ばれる断食の時期があり、日中の間一切の飲食を断つことによって貧しい人たちへの共感を育むことを課しています。

 

一方、日本はと言えば会社あるいは資本主義社会の論理だけで突っ走る傾向がとても強く、その価値観に歯止めをかけるべく確固たる宗教あるいは倫理は存在しないかのように感じられます。

 

日本人は「エコノミック・アニマル(経済的利益を追い求める動物の意。昭和40年代、国際社会における日本人の打算的・利己的な態度を皮肉った言葉)」という面が強いんだなと僕自身が感じたのは、逆に僕が外国の多くの人たちと付き合ったときです。他を見て己を知るわけです。なかなか日本だけで生活していると気づかないものなのでしょう。

 

今回のテーマは死ですが、それについて考えていくと結局自分の生の意味・カタチは何でありどうなのかという話にたどり着くんですね。

 

発展途上国の人たちは食べて生活していくのに精いっぱいで余計なことは考えられないかもしれませんが、世界的に見れば日本はまだまだ豊かです。そうなってくると人は本来は自己実現を目指すはずなのですが、どうも日本人は野心というのか金儲けというのか、その欲望は留まることを知らず生きる目的にすらなっている人も決して少なくないようです。

 

確かに自分もそうなのですが、生きながら例えば仏陀のように解脱(煩悩に縛られている状態から自由になること)することは難しいでしょう。でもそのあたりに意識が多少なりともあるのが僕が海外で出会った人たちであり、決して日本人ではないように思われるのです。

 

死後の世界があるのかどうかはわかりませんが、仮にあったとしてもいわゆる魂として存在するわけで肉体はないはずです。となると、財産や物質的なものに何の価値もなくなるのです。

 

この世での生が魂の練磨であるとすれば、生のための生は無価値になりえます。生まれた以上その生を全うすることは義務でしょう。そしてこの生において自分が来たるべき時に満足して死ねるには、何をすべきなのかを今一度日本人は熟考する必要があるのではないでしょうか。