-学校の勉強って役立つの?(2)-

今回は英語についてです。日本では今現在「教科」としては中学から学びますが、2020年度から小学5年生から必修化されます。ただ社会人になって実際に英語を使う仕事というのはどのくらいあって、どんな能力が要求されるのでしょうか?また、なぜ今、小学校で必修化なのでしょうか?

 

商社に勤めるサラリーマンメーカーの技術者はその開発のための参考文献(英語のものが多いと聞きます)や海外とのネィテイブあるいは外国人とのやりとりやらで使うので英語の「読む」「書く」「聞く」「話す」の4技能は必須です。外国人とじかにやり取りするのでそれなりの実践における能力が要求されます。

 

また翻訳ならば高度な読解力、通訳となるとネィテイブレベルの能力が要求されます。後者は基本的に現地での海外生活経験がなければ通訳を生業にして生活していくことは難しいと思われます(この職種は学生時代、『英語が得意だった』というだけのレベルとは次元が違うわけです)。

 

一方、学校や塾の先生ならば相手がネィティブの外国人ではなく、日本人の子どもたちですから「読む」「書く」が重要であって、「聞く」「話す」はさして必要ないでしょう(実際、多くの先生は英語でコミュニケーションをとる経験値もそう多くはないと思われますし、結果的にそのあたりのノウハウは多くはないはずです)。反対に受験英語の指導という技能、子どもたちの学力を上げるための指導能力が必要になってきます(このことは英語の技能そのものとは別のものです)。

 

僕自身は現在の仕事が学習塾講師なので高校生に英語を教えますが、必要なのは英語そのもので言えば英文を読み取る力あるいは英文法が主であって「英会話」の技能はほとんど必要ありません。逆に前職では文書は簡単なものがほとんどなので、訓練あるいは意識の改革が必要だったのは「聞く」「話す」技能でした。

 

また英語がわかり外国人と意思疎通ができるようになると「世界が広がる」のは間違いありませんし、異文化に触れること今まで当たり前だった自分の日本人的な価値観がひっくりかえされる面白さがあります。僕自身には英語を学んだ大きな恩恵の一つがこのことで、その意味で学校の勉強(の一部)は役立ったと言えます。

 

結局のところ、社会に出て英語が役立つかどうかの判断の多くは就く職種によるということです。また職種ごとに必要な英語の技能は限られてくると同時に、その内容が専門的になるということもあります(例えばエンジンの技術者ならばそのフィールドの専門用語を使いますし、学校の英語の先生ならば子どもたちが理解しやすく着実に身につくような英語の分析・説明などです)。

 

ただし、上に挙げたような英語をツールとして使う専門職は全体の仕事のうち1%という数字もあるくらいですし、今のところ多くの職場では英語はそう使われていないでしょう。

 

しかしながら、仕事ではなく英語を人生を楽しむためのツールとして学ぶと考えることもできます。

 

社会が国際化していることは否めない事実ですから、英語を多少なりとも使いこなせれば物の見方がグローバルになり、外国人との付き合いあるいは映画・本などを通して外国の価値観・文化などへの理解もより容易になるはずです。僕自身のことで言えば、いわゆる座右の書のうちの一つは英文でしか出版されていない作家のシリーズです。より人生を楽しむ可能性も広がるわけです。

 

ちなみに、英語は世界中で第二外国語としての役割をも担っています。僕は前職でメレーと呼ばれる小さなダイヤモンドを扱っていましたが、そのマーケットのあるインド・タイ・イスラエル・ベルギーで使われる言葉もすべての国で現地語ではなく英語でした。また個人的に付き合いのあるドイツ人・タイ人・韓国人との会話も現地語ではなく英語です。英語が使えると世界観が飛躍的に広がります。

 

最後に小学校から教科として取り入れることが決定されたことですが、本音で言えば正直僕はこのことには否定的に考えています。より大事なのは母国語である日本語だと思うからです。「二兎を追うものおは一兎をも得ず」と言います。僕は小学校のときには正しい日本語をしっかり学んでほしい思っているからです。まぁ決まった以上はそれに対処するしかないですけれども。

-教育について-

昔タイの国際空港だったドンムアン空港でのことです。当時はまだ異文化に理解が甘かったためか、若い女性トイレ清掃をしていてひどく驚いたものです。

 

日本ではいわゆる3K職場(キツイ・汚い・危険)な仕事は若い人、特に女性からは避けられていたように思います。それでも当時のタイでは教育を受けていない彼女らの仕事はこのような仕事や風俗に限られてしまっていたのでしょう。

 

随分前から日本でも建築現場などではたまに女性も見かけられるようになりましたが、さすがにトイレ清掃となると日本では若い人を見たことはありません(いるのかもしれませんが)。

 

その背景を探ってみたことがあります。数年前のデータでは、タイでは農業・漁業などの第一次産業に従事する人が40%程度であるのに対し日本では4%程度と10倍の開きがあります。農作業は肉体労働であり、会社員・公務員のような第三次産業に携わる人にはおそらく必須である教育・コミュ力などは必要ないため、一般的にタイの農家では教育を重視しません

 

僕の好きなタイの作家であるピラ・スダムも子どもの頃、文字を習いたくて寺小屋でこっそり勉強を教わっていたところ、父親に無言で畑に引き戻された経験があるそうです。

 

のちに彼は奨学金を得て外国に留学するのですが、農村には「農民の子は勉強する必要はない」という考え方があったわけです(その理由は「教育を受けてもせいぜい農作業をさぼり、親を馬鹿にするだけだから」ということらしいです)。もちろんさすがに今はかなり変わっては来ているはずですけれども。

 

僕が言いたいことは、それなりの教育を受けていない若者は日本と違って山ほどいるのが発展途上国の現状だということです。よって彼らが都会に出てきたとき、出来る仕事は労働系に限られるわけです。

高校進学率が97%である日本とは環境が大きく違うわけです。かつ日本では勉強が嫌いだから進学しないという例が多いと思われますが、東南アジアでは言うなれば文化の壁あるいは経済力に阻まれ進学できず、冒頭の(若くても)「トイレ掃除」につながるのです。

 

ただ昔のタイとは違って、今はタイは東南アジアではかなり経済発展を遂げ「東南アジアの優等生」と呼ばれるくらいになったことは事実です。それも多分に日本企業の恩恵であることがあるのですが。

 

一方バンコックと東北地方とでは平均年収の差が6倍以上もあったりします(日本ではトップの東京と青森あるいは沖縄の平均年収差はせいぜい2倍)。これもほとんどが農民の子は農民という構造上の問題であり、日本とは事情が異なるということです。

 

また、お隣のミャンマーはいまだに道路・電力事情のインフラ整備などがタイの数十年前の状況である上、第一次産業に60%以上の人たちが従事しています。義務教育は小学校までですし、正確な割合はわかりませんがかなりの子どもたちがその小学校ですら出ていないのが実情です。

 

子どものときに教育が受けられないと大人になったときの就業が限られてしまい、都会では肉体労働・小売業店員・ウエイター、ウエイトレス・安宿の受付などに行き着くのでしょう。彼らの労働環境は僕の知る限りとても悪く、例えば拘束時間が日に12時間以上がザラで給料も驚くほど安かったですね。

 

ところで若さは何を意味するのでしょうか。おそらく日本では顔つき・容姿の精悍さや美しさを意味すると同時に経験・技能不足とみなされるでしょう。

 

仕事の種類によっては専門的な技能よりも、愛想の良さや若さつまり見た目の美しさが優先されるものもあるでしょうが、仕事のうちのいくつかは高度な能力が要求され、その能力には知識と経験が必要です。

しかし、若ければ若いほど知識はともかく経験は未熟なはずです。ここでは若さは能力的未熟さを映るでしょう。

 

また人は必ず老います。若いときはその美形が武器になったとしても、老いたときにその人なりの人間としての常識・分別・知恵が求められ、それらを練ってこなかったならばきっと惨めな結果に陥ることになるのではないでしょうか。例えばその美形を武器に俳優として成功できたとしても、人間としての魅力がなければ年を取ったときには消えてしまうでしょう。

 

やはり心技を磨き、社会に貢献できる一つの分野を培い他人の役に立つ能力あるいは労働をしてこそ全うな生き方なのでしょう。

 

そしてそれが日本では発展途上国と比べれば比較的容易に達成できえるのです。事実、僕の生徒の中で国立の医学部に合格したある生徒も家計は決して楽な家ではなくは母一人子一人の家庭でした。

 

日本では相対的に見て自由があります。教育を受ける自由あるいは捨てる自由。もちろん表現の自由も。

 

アメリカ人の友人が風俗で働く人間は自業自得なんだ、と言っていたのを思い出します。それが先進国であるアメリカや日本での普通の発想なんでしょう。

 

しかし今の僕は少なくともいわゆる発展途上国の彼女らは必ずしもそうとは限らないと考えています。何せ文化や環境が大きく異なる社会ですから一元的に物事を判断するのは危険だということを幸いにして様々な海外経験から知ることができたのです。

 

日本においては、教育を生かすも殺すも自分次第というところに一人一人の人生における選択の結果が見えてくるのは興味深いところですね。

-いじめる人といじめられる人って?-

生きるということは戦いの連続です。自分自身との戦い、他人との戦い、あるいは組織としての会社同士の戦いつまり競争(資本主義ですから当然です)。「弱い」というより活気のない、努力を怠った会社は淘汰されるまでです。生きるためには、努力しながら前向きに戦い続けるしかありません。

 

しかし明らかに力の強いものが力の弱いものを叩くのは戦いではなくいじめです。一人に対して皆が団結して攻撃するような卑怯なやり方も同じです。

 

リス族の友人宅に泊ったときのことです。北タイの山岳少数民族は高床式が普通で、その住居下には鶏やら豚を育てていることがほとんどです。ある祭りの日の次の朝、早く起きたので外に出て床下を見てみると、大きな鶏小さな鶏(鶏の種類は違っていました)を執拗に追い回しつついていたのです。

 

そのとき思いました。子犬たちがじゃれあうことと同じように、いじめるってことは生き物の本能の一つなんではないのかと。

 

いじめがある種の本能である以上、社会やら学校の先生やらがどう注意・叱責したところでいじめは見えないところであるいはカタチと変えるだけあって残念ながらなくならない思われるのです。悪いこととわかってはいてもそれ以上の怒りや憎しみなどが心の中で発生してしまい言動に出てしまうわけです。

 

きっと多かれ少なかれ誰しも似たような経験は多少はあるのではないでしょうか。人は全能では勿論ないですし、欠点がない人はいないですから。

 

イエス・キリストはエルサレムで罪を犯した女性を前にして「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が最初に石を投げなさい」と言います。

 

この状況で他人を攻撃できる人たちはいなくはないでしょうが、幼い未熟な子ども想像力に欠けた人ストレスなどで物が見えなくなっている人、あるいはどこかで道が外れてしまった確信犯たちです。なぜなら普通、人は欠点はあっても同時に良心も持っているからです。

 

ところで最近のマスコミの論調はいじめる側だけが事さらに糾弾されますが、事が起きるときは多くが両方に問題があることが多く、いじめられる側にも問題・課題があることが看過されている気もします。

 

お互いが問題を解決していく姿勢がなければ事態は表面的にはともかく、本質的な解決とはいかないものです。くり返しますが一つ一つのケースが100%片方が悪いなどということは普通あまりないものだからです。

 

しかし例外として身体的欠陥あるいはADHD(attention deficit hyperactivity disorder)と呼ばれる注意欠陥・多動性障害を持つ人たちへのいじめがあります。

 

身体的にも精神的にも人と違った面を持つ人たちは攻撃の的になり易いのは事実でしょう。彼らへのからかい・攻撃などは程度・状況にもよりますが一方的に悪いことが多いと言っていいのではないでしょうか。

 

このような状況では管理者である人やら周りの人たちが何らかの手助けをするか、問題の起きにくい環境をうまく整えるか、あるいは人よりずっとより強くあらねばならないのでしょう。

 

精神医学者であったA・アドラーは「コンプレックスこそが活動のエネルギーの源である」と説き、戦国武将の山中鹿之助は『願わくは我に七難八苦を与えたまえ』と祈ったと聞きます。

 

苦労が人を成長させるものだという考え方ですね。そう考えると、身体的にも精神的にも普通の人はそれらの点で苦労がないだけ人間的に成長できず、ひょっとすると努力することが出来ない「ダメ人間」になる可能性がより高いのかもしれません。

 

僕はこう考えます。いじめる方もいじめられる方も高い志をもって、何でもいいから一つ強みのある分野を持つこと、あるいはすべての事柄を糧にして戦い・成長し続けることが大事なんだと。そしてそう生きる姿勢が、両者にとっていじめをなくし克服する一つの手がかりになるのではと。

-努力し続けることとハレとケ-

こんな話を聞いたことがあります。「死刑囚はその日までの日々を充実して過ごすのに対して終身刑の囚人はだらだらと日々を過ごす」と。このこと自体は本当か嘘かはわかりませんが、説得力がある話だと思います。緊張感のある生活とない生活が人にもたらす影響と僕は考えます。

 

子どもだろうが青年あるいは中年だろうがカタチは違えども、日々それぞれ自分なりの努力をし、(ちょっとした)喜び、あるいは苦労やストレスがあるはずです。その原因になるのはすべての世代に共通なのが人間関係であるでしょうし、また勉強やら仕事やらそれぞれ年代ごとにやるべきことの成果でしょう。それらの中での毎日はいいこともあれば、当然苦労の種になるものであるわけです。

 

子どもたちは朝学校に出て、夕方からは習い事、部活動や塾がありますし、高校生になるとアルバイトをする生徒もいます。学校では集団生活における適応能力を練っていかなくてはなりませんし、勉強もしなくてはなりません。もちろんそれらは大人になって社会に貢献するためあるいは経済力(稼ぐ能力)を身に付けるために必要なことです。

 

スポーツにも多くの子どもたちが励みますが、これは基本的に「楽しみ」の範疇にあることが多いでしょう(体を動かすことは遊びの原点だと思います)。

 

子どもたちにとっては学校の教科学習は「やりたくないこと」で、出来るだけ「遊び」たいと思っているのでしょう。それはゲームやら友達とのおしゃべりやらスポーツなようです。

 

社会人になれば多くは会社勤めや工場勤務になりますが、ここでも業績を上げるための努力が求められますし、それは報酬に反映されます。会社は大きな市場の中での競争がその会社の生き残りに関わるため、サバイバルは厳しいものになるのは資本主義社会では当然のことです。

 

会社はノルマ業務命令あるいはボーナスを出し、スタッフの士気を高め結果を出すべく努力を求めます。その方針に沿わないスタッフは場合によっては解雇されるのも市場の原理から考えれば仕方のないことです。

 

その忙しくプレッシャーもある平日から解放されて、休みの日には外食や買い物やスポーツや旅行を束の間謳歌するのです。

 

さて、自分自身で自分をコントロールしながら努力し続けることの出来る人がどれだけいるでしょうか?僕自身の経験から考えてみても、基本的に人間は怠け者だと思われます。言い換えれば、人はややもすれば緊張感がなくなりだらしなくなってしまうってことですね。

 

忙しい人が待ち望む休日も長く続けば多くの人はすぐに飽きてしまい、仮に家から一歩も出ず、誰とも会わず、何もしない生活になってしまえば、その恐ろしいほどの退屈さに下手すれば心も技も体も「壊されて」しまう人も出てくるでしょう(あるドラマで使っていた言葉ですが、『感情も(使われなければ)錆びる』わけです)。

 

仕事から離れて「毎日が日曜日」である高齢者たちについて考えて見れば、軽いスポーツや食事会あるいは旅行などを楽しみ充実した日々を送る人たちもいるようですが、人によってはなんとなく物足りないと感じる人もいるはずです。

 

僕はこう思います。健康であることが前提ではありますが、人は生きている限り何かしら緊張感をもって頑張ることが、充実感ひいては幸福感につながるんではないかと。仕事中心だった人たちは引退すれば、待ち遠しかった「休み」が味気ないものに変化してしまい、今度は退屈という苦しみの中に置かれてしまうのです。

 

夏目漱石は『倫敦塔』という小説の中で、「およそ世の中に何が苦しいと云って所在のないほどの苦しみはない意識の内容に変化のないほどの苦しみはない。使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬほどの苦しみはない」と書いています。

 

僕はこう思います。充実した日々を送るために必要な条件が(適度の)緊張感なんだと話してきましたが、その緊張感には他人の存在が重要であり、それは友人であったり、先生であったり、同僚であったり、上司であったりするのだと。

 

その他人の存在は怠け者の自分に鞭打つように自分の内側にエネルギーやらやる気を生み出させうるのであって、そのことが出来、人をうまく動かす環境作りのできる人がいい先生であったり、いい上司なんだと思うのです。

 

また、その中でもライバルあるいは家族という存在はより大きいように思います。成長するためにはライバルや同志が人を切磋琢磨させるからであり、家族がいれば人はより多く戦える、つまり「自分のため」よりも「誰かのため」の方が人間は強くなれると思うからです。

 

そしてもう一つ。日本民俗学の言葉で「ハレ(非日常)とケ(日常)」というものがあります。この言葉を使って三島由紀夫は「ハレがあるからケがあり、ケがあるからハレがある」と説明しました。

 

サラリーマンの例で確認すると、必ずしも好きではない仕事という毎日(ケ)があるからこそ、週末・休日(ハレ)という非日常が楽しめるという論理です。言い換えれば 休日ばかりではハレは存在しなくなるということで、日々の苦労があればこそ休日のオフが楽しいのだということになりますね。

-格闘技と武術ってどう違うの?-

ざっくり言うと総合・空手(寸止め・フルコンタクト)・ボクシング・柔道などは体力や運動神経が重視されるスポーツ・格闘技であり、頂点を極めるためには「若さ」が必要条件になってくるでしょう。

一方、沖縄空手・合気道は(体力や運動神経というよりも)伝統的技術体系である武術で、物理・生理・心理をうまく使い力はそれほど使いません。そのため年をとっても向上が図れる面があります。

一般的に言って格闘技はガチなぶつかり合いであるのに対して、武術は伝統に沿った高度なトリックを使いガチになる前に仕留める技と言えます。別な言い方をすれば、相手は「あれれっ」と訳もわからないままに制されてしまうのです(もちろん当人次第では単なる剛の力にも負けるであろうほど、武術修行者は未熟な者たちも多いのも事実でしょう)。

過去の名だたる武術家は武田惣角にしても植芝盛平にしても当時としても体は小さい方です。さらに今現在の空手家の最高峰はおそらく宇城憲治先生がその一人であると僕は考えますが、彼も体は決して大きくありませんし年齢も68歳です。また僕が知る限りの最高の武術家はブルース・リーですが、彼も体は小さいですね。

これらのことは武術が決してガチの体力勝負でないことが推察できます。武術は体力差を凌ぎうる技術であるわけです。また武術はその技術体系が武器とつながってくるところもいわゆる格闘技と異なるところです。

素手を前提とした戦いであれば、体が大きいあるいは充実している方が強いのは当然ですし、その上戦う技術を知っていて、さらに経験値(試合や喧嘩など)があればそれら3つの要素に比例して強いのが普通です。

もう一つ、格闘技と武術の特徴について特筆すべきなのは格闘技は才能や頑丈な体躯があれば短期間で強くなることが可能であるのに対し、武術は時間がかかるという点です。

時間をかけて骨格そのものを「正しい姿勢」(この言葉はアメリカ在住の日本人沖縄空手家から『(上達するために)一番大切なものは何ですか』と聞いたとき返ってきた答えです)に矯正していくものとも言えるかもしれません。

格闘技は基本若いときにやるべきスポーツであり、武術は一生かかって精進すべきものなのでしょう。