-努力し続けることとハレとケ-

こんな話を聞いたことがあります。「死刑囚はその日までの日々を充実して過ごすのに対して終身刑の囚人はだらだらと日々を過ごす」と。このこと自体は本当か嘘かはわかりませんが、説得力がある話だと思います。緊張感のある生活とない生活が人にもたらす影響と僕は考えます。

 

子どもだろうが青年あるいは中年だろうがカタチは違えども、日々それぞれ自分なりの努力をし、(ちょっとした)喜び、あるいは苦労やストレスがあるはずです。その原因になるのはすべての世代に共通なのが人間関係であるでしょうし、また勉強やら仕事やらそれぞれ年代ごとにやるべきことの成果でしょう。それらの中での毎日はいいこともあれば、当然苦労の種になるものであるわけです。

 

子どもたちは朝学校に出て、夕方からは習い事、部活動や塾がありますし、高校生になるとアルバイトをする生徒もいます。学校では集団生活における適応能力を練っていかなくてはなりませんし、勉強もしなくてはなりません。もちろんそれらは大人になって社会に貢献するためあるいは経済力(稼ぐ能力)を身に付けるために必要なことです。

 

スポーツにも多くの子どもたちが励みますが、これは基本的に「楽しみ」の範疇にあることが多いでしょう(体を動かすことは遊びの原点だと思います)。

 

子どもたちにとっては学校の教科学習は「やりたくないこと」で、出来るだけ「遊び」たいと思っているのでしょう。それはゲームやら友達とのおしゃべりやらスポーツなようです。

 

社会人になれば多くは会社勤めや工場勤務になりますが、ここでも業績を上げるための努力が求められますし、それは報酬に反映されます。会社は大きな市場の中での競争がその会社の生き残りに関わるため、サバイバルは厳しいものになるのは資本主義社会では当然のことです。

 

会社はノルマ業務命令あるいはボーナスを出し、スタッフの士気を高め結果を出すべく努力を求めます。その方針に沿わないスタッフは場合によっては解雇されるのも市場の原理から考えれば仕方のないことです。

 

その忙しくプレッシャーもある平日から解放されて、休みの日には外食や買い物やスポーツや旅行を束の間謳歌するのです。

 

さて、自分自身で自分をコントロールしながら努力し続けることの出来る人がどれだけいるでしょうか?僕自身の経験から考えてみても、基本的に人間は怠け者だと思われます。言い換えれば、人はややもすれば緊張感がなくなりだらしなくなってしまうってことですね。

 

忙しい人が待ち望む休日も長く続けば多くの人はすぐに飽きてしまい、仮に家から一歩も出ず、誰とも会わず、何もしない生活になってしまえば、その恐ろしいほどの退屈さに下手すれば心も技も体も「壊されて」しまう人も出てくるでしょう(あるドラマで使っていた言葉ですが、『感情も(使われなければ)錆びる』わけです)。

 

仕事から離れて「毎日が日曜日」である高齢者たちについて考えて見れば、軽いスポーツや食事会あるいは旅行などを楽しみ充実した日々を送る人たちもいるようですが、人によってはなんとなく物足りないと感じる人もいるはずです。

 

僕はこう思います。健康であることが前提ではありますが、人は生きている限り何かしら緊張感をもって頑張ることが、充実感ひいては幸福感につながるんではないかと。仕事中心だった人たちは引退すれば、待ち遠しかった「休み」が味気ないものに変化してしまい、今度は退屈という苦しみの中に置かれてしまうのです。

 

夏目漱石は『倫敦塔』という小説の中で、「およそ世の中に何が苦しいと云って所在のないほどの苦しみはない意識の内容に変化のないほどの苦しみはない。使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬほどの苦しみはない」と書いています。

 

僕はこう思います。充実した日々を送るために必要な条件が(適度の)緊張感なんだと話してきましたが、その緊張感には他人の存在が重要であり、それは友人であったり、先生であったり、同僚であったり、上司であったりするのだと。

 

その他人の存在は怠け者の自分に鞭打つように自分の内側にエネルギーやらやる気を生み出させうるのであって、そのことが出来、人をうまく動かす環境作りのできる人がいい先生であったり、いい上司なんだと思うのです。

 

また、その中でもライバルあるいは家族という存在はより大きいように思います。成長するためにはライバルや同志が人を切磋琢磨させるからであり、家族がいれば人はより多く戦える、つまり「自分のため」よりも「誰かのため」の方が人間は強くなれると思うからです。

 

そしてもう一つ。日本民俗学の言葉で「ハレ(非日常)とケ(日常)」というものがあります。この言葉を使って三島由紀夫は「ハレがあるからケがあり、ケがあるからハレがある」と説明しました。

 

サラリーマンの例で確認すると、必ずしも好きではない仕事という毎日(ケ)があるからこそ、週末・休日(ハレ)という非日常が楽しめるという論理です。言い換えれば 休日ばかりではハレは存在しなくなるということで、日々の苦労があればこそ休日のオフが楽しいのだということになりますね。