-いじめる人といじめられる人って?-

生きるということは戦いの連続です。自分自身との戦い、他人との戦い、あるいは組織としての会社同士の戦いつまり競争(資本主義ですから当然です)。「弱い」というより活気のない、努力を怠った会社は淘汰されるまでです。生きるためには、努力しながら前向きに戦い続けるしかありません。

 

しかし明らかに力の強いものが力の弱いものを叩くのは戦いではなくいじめです。一人に対して皆が団結して攻撃するような卑怯なやり方も同じです。

 

リス族の友人宅に泊ったときのことです。北タイの山岳少数民族は高床式が普通で、その住居下には鶏やら豚を育てていることがほとんどです。ある祭りの日の次の朝、早く起きたので外に出て床下を見てみると、大きな鶏小さな鶏(鶏の種類は違っていました)を執拗に追い回しつついていたのです。

 

そのとき思いました。子犬たちがじゃれあうことと同じように、いじめるってことは生き物の本能の一つなんではないのかと。

 

いじめがある種の本能である以上、社会やら学校の先生やらがどう注意・叱責したところでいじめは見えないところであるいはカタチと変えるだけあって残念ながらなくならない思われるのです。悪いこととわかってはいてもそれ以上の怒りや憎しみなどが心の中で発生してしまい言動に出てしまうわけです。

 

きっと多かれ少なかれ誰しも似たような経験は多少はあるのではないでしょうか。人は全能では勿論ないですし、欠点がない人はいないですから。

 

イエス・キリストはエルサレムで罪を犯した女性を前にして「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が最初に石を投げなさい」と言います。

 

この状況で他人を攻撃できる人たちはいなくはないでしょうが、幼い未熟な子ども想像力に欠けた人ストレスなどで物が見えなくなっている人、あるいはどこかで道が外れてしまった確信犯たちです。なぜなら普通、人は欠点はあっても同時に良心も持っているからです。

 

ところで最近のマスコミの論調はいじめる側だけが事さらに糾弾されますが、事が起きるときは多くが両方に問題があることが多く、いじめられる側にも問題・課題があることが看過されている気もします。

 

お互いが問題を解決していく姿勢がなければ事態は表面的にはともかく、本質的な解決とはいかないものです。くり返しますが一つ一つのケースが100%片方が悪いなどということは普通あまりないものだからです。

 

しかし例外として身体的欠陥あるいはADHD(attention deficit hyperactivity disorder)と呼ばれる注意欠陥・多動性障害を持つ人たちへのいじめがあります。

 

身体的にも精神的にも人と違った面を持つ人たちは攻撃の的になり易いのは事実でしょう。彼らへのからかい・攻撃などは程度・状況にもよりますが一方的に悪いことが多いと言っていいのではないでしょうか。

 

このような状況では管理者である人やら周りの人たちが何らかの手助けをするか、問題の起きにくい環境をうまく整えるか、あるいは人よりずっとより強くあらねばならないのでしょう。

 

精神医学者であったA・アドラーは「コンプレックスこそが活動のエネルギーの源である」と説き、戦国武将の山中鹿之助は『願わくは我に七難八苦を与えたまえ』と祈ったと聞きます。

 

苦労が人を成長させるものだという考え方ですね。そう考えると、身体的にも精神的にも普通の人はそれらの点で苦労がないだけ人間的に成長できず、ひょっとすると努力することが出来ない「ダメ人間」になる可能性がより高いのかもしれません。

 

僕はこう考えます。いじめる方もいじめられる方も高い志をもって、何でもいいから一つ強みのある分野を持つこと、あるいはすべての事柄を糧にして戦い・成長し続けることが大事なんだと。そしてそう生きる姿勢が、両者にとっていじめをなくし克服する一つの手がかりになるのではと。