ムンクの「吸血鬼」について

誰でも知っているムンクの「叫び」。人によってはこの名作を嘲笑の対象にすることもある。

 

でも僕は自分の中にある存在自体の不安のようなものを小さな頃から感じさせられてきた人だから、自分だけではないんだという安心・救いみたいな思いでこの絵を眺めることがある。

 

しかし今回はこの「叫び」ではなく「吸血鬼」について書いてみたいと思う。

 

強烈なメッセージを感じる。でも僕はムンクを研究したわけではないから、自分なりの感じ方だ。絵はほぼ同い年か少し年下と思える女が男を抱擁している。そしてその女の周りには異様な黒い影がある。

 

おそらく俳句(ただこれはほぼ関心がない。少なくとも今は。恋とか季節の変わり目とかにはそう思い入れがないからかな)と同じように自分の経験から、さまざまな思いがこの絵から喚起され一人一人の受け止め方は違うのだろう。ただし、少なくともこの絵画からは健全なイメージにはつながらない。

 

ムンクが意図したところはわからないが、僕はこう思う。(ほとんどの)子どもは幼いころ母親に絶対的な信頼を寄せるだろう。青年でも女に無意識にそれを求めることがあるのではないか。ここでも男の様子からはそう感じられ(少し滑稽でもある)、性的な愛を求めているようには全く感じられない。

 

一方、女は母性的な愛で男を受け止めているわけではなく、計算づくで介抱しているのだろう。その女の髪は男の体から出る血のように見えるし、実際この絵の表題は「吸血鬼」。つまり、自分が生きるためにこの男を「犠牲」にすらする思い・計算が無意識的にでもこの女にはあるに違いない。

 

男が下心で女に近付くのは多々あることだが、この絵の男ただ何らかのぬくもり(ひょっとしたら存在の不安からの救いなのかもしれない)を求めている。青年ならありうることだ。つまり、女を「第二の母」と勘違いし、一方的な愛情を求めてしまうのだ。

 

人は皆弱い。しかしそれは誰もがただ一人で乗り越えなばならない運命だ。しかし若いときはそれがわからず、何かに頼ろうとする。実際は相手も人間で(男ほどではなかろうが)女も弱いもので、一方的に頼られるのは迷惑だ。

 

でもそこに計算があれば、受け止めるのだと思う。女にそらなりの下心がなければ、この状況は成り立ちえない。そして男はそれなりの代償をその女に払わされることになる。基本的に世の中はギブアンドテイクなのだ。

 

女からすれば、その下心とは経済的支援(結婚という形態をとることが多いかもしれない)である。特別な技能を持っていない女性が一生自力で暮らしていくのは難しい。まして子どもを産んで育てるとなると間違いなく日本ではかなりの金がかかるため、一人ではさらに厳しい(男と女が子どもがいる家庭を望む場合、それは協力ということになるけれど)。

 

しかしよく考えてみると男と女のつながりなんてこんなものなのかもしれない。問題はその関係を肯定的に見るか否定的に見るかだ。しかも人の気持ちは変わるもの、昨日は肯定的に受け止められても今日は違うかもしれない。

 

二十代の頃、英会話のジオスの教室でクラスの中年男性がつぶやいたことがある。『離婚するには結婚する何倍ものエネルギーが必要なんです』と。

 

この絵にもムンクの持つ否定的な女性への思いが表現されているのではなかろうか。そう思わせるメッセージを僕は強く感じた。

沖縄空手について

カラテと言う言葉は世界に通じるもので、唐手とも書くこともあります(唐とは中国の昔の王朝のこと)。なぜなら空手は沖縄の古くからの武術と中国武術が融合されて生まれたものだからです。

 

ただし、『巨人の星』『あしたのジョー』(これらの作品自体はとっても好きで、今でもよく見ます)の原作者である梶原一騎が宣伝し大衆心理を掴み、ビジネス的に成功した流派によってこの40年は本来の空手の姿が歪められてきた経緯があるため、ここでは沖縄空手と呼ぶことにします。

 

中国の武術は2000年以上の歴史があり、太極拳少林拳あるいはブルース・リーが習っていた詠春拳が日本人には知られていると思いますが、それらの奥の深さは計り知れないものがあるものです。

 

空手の中国武術と共通したところとしてはまず武器術につながることや、筋力中心の体力勝負ではない練られた身体運用の技術がその特徴です。

 

沖縄空手の流派には剛柔流・上地流・小林流などがありますが、その基本的身体運用は皆同じです。そしてそれは型を通して受け継がれてきており、型の持つ意味もまた奥深いものがあるものです(流派によって型自体は少し異なります)。

 

型は鍛錬の意味もありますが、何よりも身体を時間をかけて改造していく点が見逃せないところで、腕とか脚とかの部分のパーツではなく一つの統一体(脚・腹・背中などが連動するということです)としての身体運用を作り変えていくわけで筋力に頼らずかつ重い攻撃ができる内側のエネルギーの出し方を身に付けていくのです。

 

型がそのまま技になる場合も当然ありますが、型はもともと正しい姿勢を導くものと言ってよいと思います。その基本の型はやはりサンチン(三戦)であり、僕の最初の先生は『俺は2万回やったから、もうやらなくても型通り動ける』と言ってました。

 

また、沖縄空手の稽古法には型以外、約束組手・自由一本組手・カキエ(手と手を触手のように相手と密着させ相手と自分の重心を調和させる稽古。時に相手を崩すこともある)などがあり、だけではなく柔の呼吸や丹田からの内側の柔らかい力(重力を利用した接触点において力を感じさせない重み)を使えるようにし、相手の心理・生理を誤魔化す技につなげるのです。

 

型が教えてくれるのは正しい姿勢・全身をまとめる身体操作(統一体)・意識の流れ(気)があり、これらはすべての流派に流れる基本的なものと言ってよいでしょう。

 

また、本来沖縄空手には試合はなかったと思われます。試合とはルールの上でのもので現代になってから行われるようになったスポーツである反面、もともと空手は自衛あるいは戦いのためであったはずです。

 

試合ではなく戦いともなれば、やるとなったらスポーツマンシップなど必要ないものです(これは最初の先生から学んだことです)。

 

この現代においても当然ながら「戦わずして勝つ」ことが理想ですが、実際世の中にはなりふり構わない悪党がいることは間違いないですし、彼らと向き合うときはきれいごとなど考えていたらやられておしまいです(「目には目、歯には歯(、でもって糞には糞)」です)。

 

武術の中には心理・生理・物理的なトリック(騙しですね)がその技の中にたくさん入っています。僕自身は総合出身ですから(ま、最初は先ほど書いた大衆心理を掴んだ流派なのですがね)、ステップやらウィービング・ダッキング(これは膝蹴りに注意しないといけませんが)に加えパーリングなどで相手の攻撃をかわしてきましたが、沖縄空手では基本的に頭のてっぺんから尻の穴まで芯が入ったように地面に垂直に動きます。またボクシングのように腰をひねったりも基本しません。

 

その代わりに空手の受け(上げ受け・外受け・内受け・下段払い)と入り身があるのです。ここが総合と大きく違う点です。受けて入り身した後すぐさま相手に攻撃を加えるのですが、その前に受けの時点で相手を「死に体」にさせてしまえば攻撃はしなくてもいいかもしれません。

 

受けた後に相手に乗っかり相手のバランスを崩したり、脚で相手の脚をつぶしたりと沖縄空手には総合・ボクシングにはない技がいろいろあります(いわゆる寸止めの試合でもこの受けがほとんど見られないのはフルコンタクト空手同様、本来の沖縄空手の技が歪められているのだと僕は思います)。

 

ただし相手がボクシング経験者だったり、巨体だったりすればそううまく対処できない可能性も高く(僕自身が柔道・ボクシングをやっていたのでよくわかります)、ステップやらパーリングやらで凌ぎながらタイミングをみて(ここと言うときに)沖縄空手の高度な技で対処するのが現実的でしょう。ただし、相手が素人なら大振りのパンチを打ってくるでしょうし、パンチをすぐ引くこともしないだろうので技はかけ易いです。

 

実際、顔面攻撃というものはステップと上体を振る技術で大抵かわせますし、当たったとしてもそう威力はないものです(パンチは数センチでも的にズレただけで効き目は激減しますから)。まして実践でハイキックを出すなどと言う危険な行為は経験を積んだ者ならまずしません。総合の選手経験のある者たちは掴みが得意ですし、靴を履いていたらなおさら掴まれやすいものです。

 

路上で脚をもって倒されたらおしまいでしょう。地面はアスファルトであってリングや試合場の畳ではないですから。

 

最後に武道でよく言われる「無の境地」について少し話しますと、思考は判断を鈍らせることもあると最近になって気づいてきました。相手はどんな攻撃をするのかわかりませんし、「(あれこれ)考える」ことによって見えなくなることにつながるのだと思うようになったのです。そのためには稽古が欠かせませんけれども。

 

ブルース・リーが「燃えよドラゴン」の中で、『考えるな、感じるんだ』と言ったことが少しわかってきたようです。

-生の謳歌-

ネクラ(根暗)な50過ぎの男である自分がみる「生」は、仏陀が言われたように「苦に満ちている」ようにも思われます。ただし、ここで言うネクラとは普通に言われるのものとは少し違うことに注意が必要です。

 

対極にあるネアカ(根明)の話をすればわかり易いでしょう。それは「何をしても楽しく感じられる」生来の性格です。人間である以上悩んだり、苦しんだりすることもありましょうが、基本的に「ただ生きること」を楽しむことの出来る人たちのことを指すのです。

 

「箸が転んでもおかしい年頃」という言葉があります。普通、思春期の女の子に使われ、ちょっとしたことでもよく笑う年ごろの年齢を指しますね。そのネアカ体質は年齢や性別と関係しているかもしれませんが、それらに関係なくネアカ体質の人たちは確かにいるようです。

 

ペットの餌を買うためにペット屋さんに行くと、子犬たちが何でもないことを「遊び」にしているのを目にします。子犬同士でじゃれ合ったり、自分のしっぽを追い回したり、飛び上がったり。与えられた生を精いっぱい楽しんでいるように見えます。

 

僕なら狭い部屋に閉じ込められ、あっという間に精神に不調をきたすに違いありません。

 

僕のようなネクラな人たちはおそらく何でもないことを楽しむことが難しいのです(ま、酒が入れば状況は変わります)。少なくとも僕はそのために仕事や趣味、あるいはライフワークの中で自分なりに目標を設定してそれらに突き進むのです。そうすることによって充実感やら達成感やらを享受して「楽しむ」ことが出来るのです。

 

あるいは人によっては、ネクラな人たちがときに感じざるを得ないと思われる空虚感とでもいうようなものを埋めるために、ギャンブルや酒におぼれていく人たちもいるでしょう。ネクラな人たちにとって、生きることはたやすいことでは決してないわけです。

 

しかし一方、不思議なもので人は、楽しげに過ごす存在-身の回りの人やらペットやら-を眺めていると、少なからず自分も幸せになってくるものです。

 

アーネスト・ヘミングウェイの短編小説『兵士の帰郷』で、「(そのうちの一人を手に入れるのはめんどうでそれに見合う価値はないけれど、)女の子たち皆を眺めるのが好きだった」という下りがあります。

 

彼の見る女の子たちは兵士自身とは住む世界が違い、自分にはない別な何かを持っているからこそ、「眺めるのが好き」、つまり明るく天真爛漫(に見える)女の子たちを眺めることによって兵士自身も楽しい気持ちになるからなのではないでしょうか。

 

ともあれネクラな人種がこの生を楽しむためには、いろいろ工夫して思惑せざるをえないわけで、それだけ苦労はします。けれど、その生はより充実したものになりうる芽を持っているとも言えます。

 

「ただ生きる」よりは、何であれ切磋琢磨して向上を図る生き方の方が生産的で、人間らしいとも言えるからです。

 

ただし下手をするとネアカな人たちが決してしない自死という選択をもネクラな人たちはしかねない存在です。これもまた人間らしいとも言えはするのですけれどね。

 

僕の考えでは芸術家とはネクラな人たちの集まりみたいなもので、物事をとことん突き詰め、練っていき、自分なりの「作品」を作り上げるのだと思います。

 

そして、この芸術家という人たちには実際、自死も多いんですね。作家だけにしても、(僕の好きな)三島由紀夫・川端康成・芥川龍之介あるいは先ほど話しましたアーネスト・ヘミングウェイもしかりです。

 

タイの友人が僕にこう言ったことがありました。『考えすぎるんじゃぁないよ!』と。しかし、僕は当然ながら僕自身が一番よく見えている面があって、むしろ考えないと落ち着かず大げさに言えば自分自身のアイディエンティティが脅かされることをもよく知っているのです。

 

結局のところ、大事なことは人は様々であり、僕には逆に考えを突き詰めることが僕にとっての生を謳歌する方法なんだと受け止めているのです。

 

50年も生きていれば、人生の酸いも甘いもそれなりに体験します。仏陀の言われたように確かに「生」は苦に満ちているかもしれません。しかし、「暗闇があるところにこそ光がある」とも言えるはずです。

 

なぜなら僕たちの存在の主体である魂は意識がその中心にあり、その意識もモノではなくとも物理法則にかなったものであると考えるからです。

-タイと日本-

人はいろんなことを感じ、考えながら生きています。仕事のこと、家族のこと、食べもののこと、そして社会に起きていることなどさまざまです。

 

そして大人になると現代における日本の環境で身についた思考習慣が『そんなもんなんだ』当たり前になってしまうことも多いものです。でも果たして本当にそうなのでしょうか?

 

今の日本との比較対象が実感としてないがために、自分あるいは今の日本の考え方すべてが絶対的なものと認識してしまいがちだからでしょう。その結果、いいところにも悪いところにもそう疑問を持たなくなってしまって、すべてをそのまま受け入れてしまうわけです。

 

一方、海外生活をした人達はその国と自国を相対的にみることができるので、その良し悪しを感じ・考えさせられたことも多いはずです。

今回はタイのチェンマイあるいはチェンマイの人たちの価値観について書いてみようと思います。

 

まずは常夏と言われる年中温かい、っていうか暑い(3~4月には40度を超すことも多いです)ってところがあります(今、日本は寒いですし)。逆に見れば日本は四季折々季節によって暑かったり寒かったりの変化に富んだ国です。

 

僕が日本との違いを強く感じた一つが宗教観の違いです。タイ人は(上座部)仏教への帰依の度合いが日本人のそれとは全く異なり、そのまま日常へ入り込んでいることです。タイ人の仏教徒は国民の95%以上です。実は日本では全人口のおよそ70%以上が仏教徒と言われます。ただそのわりには我々の日常の生活には全くと言っていいくらい関係していないのが普通でしょう。

 

一方、そんな日本と比べてタイでは仏教あるいは僧侶が身近な毎日の生活に溶け込んでいて、毎朝の托鉢(信者が僧侶に物品を捧げること)・寺祭り・(人生)相談事、そして(短期)出家と庶民との関りがさまざまあるのを何度も見てきました。またタイ人が皆進んで寄進をすることも日本人には考えづらいものであるのに違いありません。

 

タイの寺院の数はおよそ3万で日本国内の大手コンビニ数の半分強と言えばその数の多さが実感できるでしょう。タイ男性の多くは少なくとも一度は出家を経験します(今はともかく昔は出家経験のない男性は周りから馬鹿にされたようです)。仏教界での不祥事も聞かなくはありませんが、これら庶民の生活に密着している点でタイ人は敬虔な仏教徒であると言っていいでしょう。それに比べると、日本は無宗教と言った方がいいほど日常に仏教が溶け込んでいないようです。

 

ところでタイはこの30年で随分街並みが変わりました。バンコックに(大きな)スラムはなくなったし、インフラに関しても高架鉄道BTSの開通、高層ビルの乱立あるいは綺麗で巨大な商業施設の出現などバンコックに限れば「先進国」と見間違うほどになってます。

 

しかし国としてはまだ発展途上国です。道路・電気・水道などのインフラ整備度や大気汚染の度合いなどの環境は日本と比べればまだまだ遅れています。チェンマイ市内は排気ガスが充満していますし、時には煙害もありますし、今だに雨期になると下水設備が不十分なため街中水浸しになることもあります。この点は日本のインフラ成熟度はかなり高いわけです。

 

またタイ社会を理解するにはその産業構成を考えなくてはなりません。タイおける職種の内容を日・タイを比べてみます。

 

このことは人の教育環境にも大きくつながるため重要なポイントです。それは普通、商業やさまざまなサービスを提供する第三次産業はそれぞれの産業が会社ごとに顧客満足度を競い合う、言うなれば「人」「コト」中心の産業であるためにスタッフ一人一人の専門能力が問われ、高度な教育レベルを必要とする場合が多く、その分社会の成熟度が高まるためです。

 

僕が初めてタイに訪れた1987年は第三次産業に従事する人々は19.6%であったのに対して2014年には42.1%と2倍以上増えましたし、当然その反面農業や漁業などの第一次産業に従事する人々は68.1%から35.2%の約半分に減りました。

 

この点だけで日本社会を調べてみると、大正9年(1920)時点で第三次産業従事者が23.7%で昭和30年が35.5%ですから、3~4年前(2014)のタイは日本の昭和30年つまり62年前の日本と大して変わらない比率いうことになります。

 

もちろん日本でもそうだったに違いないのですが、農業・漁業に携わる家庭では教育が重んじられない傾向が強く、そのためそれだけ庶民の物事に対する見方・考え方が狭かったはずです。つまりこの点では今やタイ人の中には先進国並みの高い教養を持ち幅広い物の見方・見識を持つ人が増えたということになります。

 

そしてもう一つ、僕自身が肌で感じた違いはタイは上流・中流・下流階級の意識差がハッキリした格差社会だということです。それは一つにはタイが陸続きの国で周りのミャンマー・カンボジアなどから人が流れ込む国ということもあるようです。そのためもあり、彼らは15歳以上になればバットプラチャムトア(直訳すると「常に体に携帯する券」)と呼ばれる身分証明書を携帯することが義務付けられています。

 

タイでは特に田舎の人たちは、都会の人たちや欧米人や日本人のような外国人、そして洗練された衣装・持ち物・貴金属などを身にまとった人たち、あるいは英語を話す高等教育を受けた人たちに一目も二目も置くような気がします(日本人でも軽装だったりサンダルだったりするとゲストハウスなどでも馬鹿にされる態度を取られることもありますが)。この辺りはタイ人の階級意識の強さの一つの現れでしょう。

 

日本も昔は士農工商の階級・身分の違いがありましたが、今はその違いがあまり感じられないですね。僕はここは今の日本社会のとってもいいところだと思います。医者の子どもも年収200万の家庭の子どもも普通に仲が良かったりする関係は外国ではあまり見受けられないですからね。幼い頃、白人の子どもの母親から『黒人とは二度と遊ばせない』と言われたキング牧師の有名なセリフで今回はテーマはおしまいにします。

 

『私には夢がある。私の4人の子どもたちがいつの日にか、肌に色ではなく人格によって判断される国に住むことを。』

-「死」について-

我々は皆いずれ死にます。それは誰しも避けられないことです。死に関しての人々の想いは様々でしょうが、確実に死ぬのです。

 

僕自身ときに当惑するのは、死ぬことを『可哀そう』と表現する人たちがいることです。もちろん若く元気な心身を持ちながらも、何らかの事故や事件に巻き込まれ命をなくすならばその通りでしょう。

 

しかし、高齢になるなどで肉体かつ人格を形成する脳機能つまり記憶・思考が不自由になった場合、生き続けること(ただ生きること)が果たして自然の摂理にかなうもので、もっと言えばそれが幸せなことなのでしょうか。

 

仏陀は四諦(見極めた4つの真理)の一つに苦諦、つまりこの世は苦に満ちているものだと悟り、別の一つには集諦、その苦の原因は煩悩や物事への執着によるものだと考えました。

 

また、ギリシアの賢人ソクラテスは、『死を恐れることは知らないことを知っているかのように思うことで、知恵がないものの考えることだ』とし、さらには『死は本当はすばらしいものなのかもしれない』とも述べています。

 

僕自身案外この点に関して早熟なのか何なのかわかりませんが、小学校のときに別に何かがあったわけでもないのによく自分が生きていることへの絶望のようなものを感じ取り、押し入れの中に入って悶々としていた記憶があります。「生の殻」から抜け出せない苦しみのようなものを幼くして確かに感じ取っていたのです。

 

たとえば野生の動物たちにとっては生とは常に死と隣り合わせであり、いつ文字通りの「弱肉強食」の餌食になるかわからないものです。しかも彼らは何も持たず体一つで生涯を生き抜きます。

 

人間も動物のうちの一種であり、僕は本来人が生きる基本もこの野生の動物のような状態にあるのかもしれないと感じることがあります。なぜなら生きることは他の動植物の命をも頂いて生き続けているわけですから。

 

ただし明らかに人間がほかの動物たちと違う点は、言葉を操ることです。よって人は動物たちと違い、今現在だけではなく現在を未来とつなげて生きることが可能になります。人間社会では財産の貯えや商品としてのさまざまな保険(年金もそうですね)という形で、例えば老後に対する準備が出来ますし。

 

でもそこで、特に高給をもらっていたり社会での金儲けがうまかったりする人達の中には現状の安泰だけでは満足できず、一生安定した生活を送るべくそれなり若いときからそのことを画策している人が出てくるわけです。どうも僕はここに何か違和感あるいは傲慢さを感じることがあります。

 

というのも今の日本社会はあまりにもこの点、つまり金を貯めこむことや変わらぬ将来の保証やらが意識され過ぎていて、本来の生あるいは自然の摂理からかけ離れてきているように感じるからです。

 

僕がタイで知り合ったほとんどすべての人たちは仕事をする傍ら、仏教徒としての行いや僧に対する敬意を忘れませんでしたし、今もそうでしょう。僧侶たちは三衣一鉢と呼ばれる黄色い袈裟や食べ物をもらい受ける入れ物などの最低限度の持ち物しか所有せず、さまざまな戒律の下で日々を送ります。

 

また、ISIS(イスラム過激派)などの影響で悪い印象を持たれることの多いイスラム教もラマダーンと呼ばれる断食の時期があり、日中の間一切の飲食を断つことによって貧しい人たちへの共感を育むことを課しています。

 

一方、日本はと言えば会社あるいは資本主義社会の論理だけで突っ走る傾向がとても強く、その価値観に歯止めをかけるべく確固たる宗教あるいは倫理は存在しないかのように感じられます。

 

日本人は「エコノミック・アニマル(経済的利益を追い求める動物の意。昭和40年代、国際社会における日本人の打算的・利己的な態度を皮肉った言葉)」という面が強いんだなと僕自身が感じたのは、逆に僕が外国の多くの人たちと付き合ったときです。他を見て己を知るわけです。なかなか日本だけで生活していると気づかないものなのでしょう。

 

今回のテーマは死ですが、それについて考えていくと結局自分の生の意味・カタチは何でありどうなのかという話にたどり着くんですね。

 

発展途上国の人たちは食べて生活していくのに精いっぱいで余計なことは考えられないかもしれませんが、世界的に見れば日本はまだまだ豊かです。そうなってくると人は本来は自己実現を目指すはずなのですが、どうも日本人は野心というのか金儲けというのか、その欲望は留まることを知らず生きる目的にすらなっている人も決して少なくないようです。

 

確かに自分もそうなのですが、生きながら例えば仏陀のように解脱(煩悩に縛られている状態から自由になること)することは難しいでしょう。でもそのあたりに意識が多少なりともあるのが僕が海外で出会った人たちであり、決して日本人ではないように思われるのです。

 

死後の世界があるのかどうかはわかりませんが、仮にあったとしてもいわゆる魂として存在するわけで肉体はないはずです。となると、財産や物質的なものに何の価値もなくなるのです。

 

この世での生が魂の練磨であるとすれば、生のための生は無価値になりえます。生まれた以上その生を全うすることは義務でしょう。そしてこの生において自分が来たるべき時に満足して死ねるには、何をすべきなのかを今一度日本人は熟考する必要があるのではないでしょうか。

空手家と柔道家について

元世界王者である畑山隆則は「ボクサーは体が華奢で腕力がないので、喧嘩は強くない」という趣旨のことを言っています。彼自身は空手の世界で言えば「軽量級」に当たる60kg前後の階級で戦っていましたからそう考えるのでしょう(マイク・タイソンならそう言わないでしょうし)。しかし、柔道出身である僕が一番恐れたのがボクシング経験者です。

 

僕自身、中学3年のときいわゆる不良の番長的存在だった生徒から「決闘」を申し込まれ、放課後学校の前の公園で皆が見守る中でやることになったことがありました。僕自身は中学のときは柔道を講道館まで習いに行っていましたが、真面目な生徒だったこともありすごく怖かったことを覚えています。

 

その当日のことです。先制いきなり左目を拳固で殴られ(避けれなかったわけです)目の前が真っ暗になりましたが、その後無意識に相手を掴み、投げそして肩固めをきめ、気づいたら相手がギブアップしてました。

 

高校では柔道部で稽古しながら、空手を習い始めましたがその流派は素手による顔面攻撃がなかったため相変わらずボクサーが怖く感じていました。そしてついに大学生のときにその恐怖心をなくすために入門したのがボクシングジムの「墨東ジム」で、その頃から総合格闘技の大きな大会に出始めたのです。

 

総合格闘技のMMAなど見られるようなグランド技はともかくとして、実際の戦いにおいては掴みはよくあることです(普段人は服を着ているのでなおさらです)。逆にそれがなく終わるとしたらよほど一方が打撃能力に秀でている武術的戦略に長けているか、あるいは他方が(技術的・精神的に)弱い場合でしょう。

 

僕自身は空手家ですが、柔道も多少は身に付いているので(仮に体躯が小さかろうが)柔道家の「腕力」の強さは十分知っています。3段以上の実力を持った相手なら「掴まれたらやられる」と思った方が無難でしょう。

 

前述の畑山の話にも『掴まれてぶん殴られておしまいですよ』とも話していましたが、腕力がなければ確かにそういう面もあるでしょう。

 

しかし一方、柔道家が「飛び道具」に弱いもの事実でしょう。空手・ボクシングの持つ「当て身」技(パンチ・掌底・ひじ・蹴り・頭突きなど)をさばいたり、受けたりする技術を持ち合わせておらず、柔道の技自体が掴んでからの技だからです。

 

ゆえにパンチ・蹴りなどをもらいやすく、十分な「重さ」を持ったそれらの攻撃を目・金的・あごなど急所にもらえば戦意喪失あるいは戦闘不可能なダメージを負いやすいわけです。まして相手がナイフなどの武器を持っていれば(重い当て身技が出せない素人にでも)致命傷をもらいえるわけで、対武器には弱いことはよく指摘されるところです。

 

まぁ普通、小さないさかいでの喧嘩にナイフは出てきませんから(「刺せば監獄(刺されれば地獄)」です)、その意味で腕力のある柔道家が強いことも確かでしょう。路上で投げられれば畳ではなくアスファルトに体を打ち付けられるわけですし、彼らは締め・関節の極め技をも持っていますからね。

 

ただし重い一撃を急所にもらえば、いかにゴツイ体躯を持っていようともそこで終わります(人体とはそういうものです)。

 

MMAの選手のような明らかに普通の人とは違う鍛え抜かれた体であれば、筋力で重いパンチなどを繰り出せますし相手も予想しえますが、沖縄空手の当て身は腕力ではないざっくり言えば体重・重心を使った打ち方をするため、一見普通の体型の人であっても重い攻撃が可能なことは特筆すべきことです。

 

僕の最初の先生は(一見)腹の出たおじさんでした(不思議なことに日本の本物の伝統武術を身に付けた人は国内にいないことが多く、彼もアメリカ在住で外国人相手に道場を持っていました)。

 

結局はどんな格闘技であろうとも、技の鍛錬の度合いあるいは「修羅場」の経験値(気持ちの強さ)が勝負の鍵を握ることになるのでしょう。

-学校の勉強って役立つの?(2)-

今回は英語についてです。日本では今現在「教科」としては中学から学びますが、2020年度から小学5年生から必修化されます。ただ社会人になって実際に英語を使う仕事というのはどのくらいあって、どんな能力が要求されるのでしょうか?また、なぜ今、小学校で必修化なのでしょうか?

 

商社に勤めるサラリーマンメーカーの技術者はその開発のための参考文献(英語のものが多いと聞きます)や海外とのネィテイブあるいは外国人とのやりとりやらで使うので英語の「読む」「書く」「聞く」「話す」の4技能は必須です。外国人とじかにやり取りするのでそれなりの実践における能力が要求されます。

 

また翻訳ならば高度な読解力、通訳となるとネィテイブレベルの能力が要求されます。後者は基本的に現地での海外生活経験がなければ通訳を生業にして生活していくことは難しいと思われます(この職種は学生時代、『英語が得意だった』というだけのレベルとは次元が違うわけです)。

 

一方、学校や塾の先生ならば相手がネィティブの外国人ではなく、日本人の子どもたちですから「読む」「書く」が重要であって、「聞く」「話す」はさして必要ないでしょう(実際、多くの先生は英語でコミュニケーションをとる経験値もそう多くはないと思われますし、結果的にそのあたりのノウハウは多くはないはずです)。反対に受験英語の指導という技能、子どもたちの学力を上げるための指導能力が必要になってきます(このことは英語の技能そのものとは別のものです)。

 

僕自身は現在の仕事が学習塾講師なので高校生に英語を教えますが、必要なのは英語そのもので言えば英文を読み取る力あるいは英文法が主であって「英会話」の技能はほとんど必要ありません。逆に前職では文書は簡単なものがほとんどなので、訓練あるいは意識の改革が必要だったのは「聞く」「話す」技能でした。

 

また英語がわかり外国人と意思疎通ができるようになると「世界が広がる」のは間違いありませんし、異文化に触れること今まで当たり前だった自分の日本人的な価値観がひっくりかえされる面白さがあります。僕自身には英語を学んだ大きな恩恵の一つがこのことで、その意味で学校の勉強(の一部)は役立ったと言えます。

 

結局のところ、社会に出て英語が役立つかどうかの判断の多くは就く職種によるということです。また職種ごとに必要な英語の技能は限られてくると同時に、その内容が専門的になるということもあります(例えばエンジンの技術者ならばそのフィールドの専門用語を使いますし、学校の英語の先生ならば子どもたちが理解しやすく着実に身につくような英語の分析・説明などです)。

 

ただし、上に挙げたような英語をツールとして使う専門職は全体の仕事のうち1%という数字もあるくらいですし、今のところ多くの職場では英語はそう使われていないでしょう。

 

しかしながら、仕事ではなく英語を人生を楽しむためのツールとして学ぶと考えることもできます。

 

社会が国際化していることは否めない事実ですから、英語を多少なりとも使いこなせれば物の見方がグローバルになり、外国人との付き合いあるいは映画・本などを通して外国の価値観・文化などへの理解もより容易になるはずです。僕自身のことで言えば、いわゆる座右の書のうちの一つは英文でしか出版されていない作家のシリーズです。より人生を楽しむ可能性も広がるわけです。

 

ちなみに、英語は世界中で第二外国語としての役割をも担っています。僕は前職でメレーと呼ばれる小さなダイヤモンドを扱っていましたが、そのマーケットのあるインド・タイ・イスラエル・ベルギーで使われる言葉もすべての国で現地語ではなく英語でした。また個人的に付き合いのあるドイツ人・タイ人・韓国人との会話も現地語ではなく英語です。英語が使えると世界観が飛躍的に広がります。

 

最後に小学校から教科として取り入れることが決定されたことですが、本音で言えば正直僕はこのことには否定的に考えています。より大事なのは母国語である日本語だと思うからです。「二兎を追うものおは一兎をも得ず」と言います。僕は小学校のときには正しい日本語をしっかり学んでほしい思っているからです。まぁ決まった以上はそれに対処するしかないですけれども。

-教育について-

昔タイの国際空港だったドンムアン空港でのことです。当時はまだ異文化に理解が甘かったためか、若い女性トイレ清掃をしていてひどく驚いたものです。

 

日本ではいわゆる3K職場(キツイ・汚い・危険)な仕事は若い人、特に女性からは避けられていたように思います。それでも当時のタイでは教育を受けていない彼女らの仕事はこのような仕事や風俗に限られてしまっていたのでしょう。

 

随分前から日本でも建築現場などではたまに女性も見かけられるようになりましたが、さすがにトイレ清掃となると日本では若い人を見たことはありません(いるのかもしれませんが)。

 

その背景を探ってみたことがあります。数年前のデータでは、タイでは農業・漁業などの第一次産業に従事する人が40%程度であるのに対し日本では4%程度と10倍の開きがあります。農作業は肉体労働であり、会社員・公務員のような第三次産業に携わる人にはおそらく必須である教育・コミュ力などは必要ないため、一般的にタイの農家では教育を重視しません

 

僕の好きなタイの作家であるピラ・スダムも子どもの頃、文字を習いたくて寺小屋でこっそり勉強を教わっていたところ、父親に無言で畑に引き戻された経験があるそうです。

 

のちに彼は奨学金を得て外国に留学するのですが、農村には「農民の子は勉強する必要はない」という考え方があったわけです(その理由は「教育を受けてもせいぜい農作業をさぼり、親を馬鹿にするだけだから」ということらしいです)。もちろんさすがに今はかなり変わっては来ているはずですけれども。

 

僕が言いたいことは、それなりの教育を受けていない若者は日本と違って山ほどいるのが発展途上国の現状だということです。よって彼らが都会に出てきたとき、出来る仕事は労働系に限られるわけです。

高校進学率が97%である日本とは環境が大きく違うわけです。かつ日本では勉強が嫌いだから進学しないという例が多いと思われますが、東南アジアでは言うなれば文化の壁あるいは経済力に阻まれ進学できず、冒頭の(若くても)「トイレ掃除」につながるのです。

 

ただ昔のタイとは違って、今はタイは東南アジアではかなり経済発展を遂げ「東南アジアの優等生」と呼ばれるくらいになったことは事実です。それも多分に日本企業の恩恵であることがあるのですが。

 

一方バンコックと東北地方とでは平均年収の差が6倍以上もあったりします(日本ではトップの東京と青森あるいは沖縄の平均年収差はせいぜい2倍)。これもほとんどが農民の子は農民という構造上の問題であり、日本とは事情が異なるということです。

 

また、お隣のミャンマーはいまだに道路・電力事情のインフラ整備などがタイの数十年前の状況である上、第一次産業に60%以上の人たちが従事しています。義務教育は小学校までですし、正確な割合はわかりませんがかなりの子どもたちがその小学校ですら出ていないのが実情です。

 

子どものときに教育が受けられないと大人になったときの就業が限られてしまい、都会では肉体労働・小売業店員・ウエイター、ウエイトレス・安宿の受付などに行き着くのでしょう。彼らの労働環境は僕の知る限りとても悪く、例えば拘束時間が日に12時間以上がザラで給料も驚くほど安かったですね。

 

ところで若さは何を意味するのでしょうか。おそらく日本では顔つき・容姿の精悍さや美しさを意味すると同時に経験・技能不足とみなされるでしょう。

 

仕事の種類によっては専門的な技能よりも、愛想の良さや若さつまり見た目の美しさが優先されるものもあるでしょうが、仕事のうちのいくつかは高度な能力が要求され、その能力には知識と経験が必要です。

しかし、若ければ若いほど知識はともかく経験は未熟なはずです。ここでは若さは能力的未熟さを映るでしょう。

 

また人は必ず老います。若いときはその美形が武器になったとしても、老いたときにその人なりの人間としての常識・分別・知恵が求められ、それらを練ってこなかったならばきっと惨めな結果に陥ることになるのではないでしょうか。例えばその美形を武器に俳優として成功できたとしても、人間としての魅力がなければ年を取ったときには消えてしまうでしょう。

 

やはり心技を磨き、社会に貢献できる一つの分野を培い他人の役に立つ能力あるいは労働をしてこそ全うな生き方なのでしょう。

 

そしてそれが日本では発展途上国と比べれば比較的容易に達成できえるのです。事実、僕の生徒の中で国立の医学部に合格したある生徒も家計は決して楽な家ではなくは母一人子一人の家庭でした。

 

日本では相対的に見て自由があります。教育を受ける自由あるいは捨てる自由。もちろん表現の自由も。

 

アメリカ人の友人が風俗で働く人間は自業自得なんだ、と言っていたのを思い出します。それが先進国であるアメリカや日本での普通の発想なんでしょう。

 

しかし今の僕は少なくともいわゆる発展途上国の彼女らは必ずしもそうとは限らないと考えています。何せ文化や環境が大きく異なる社会ですから一元的に物事を判断するのは危険だということを幸いにして様々な海外経験から知ることができたのです。

 

日本においては、教育を生かすも殺すも自分次第というところに一人一人の人生における選択の結果が見えてくるのは興味深いところですね。

-いじめる人といじめられる人って?-

生きるということは戦いの連続です。自分自身との戦い、他人との戦い、あるいは組織としての会社同士の戦いつまり競争(資本主義ですから当然です)。「弱い」というより活気のない、努力を怠った会社は淘汰されるまでです。生きるためには、努力しながら前向きに戦い続けるしかありません。

 

しかし明らかに力の強いものが力の弱いものを叩くのは戦いではなくいじめです。一人に対して皆が団結して攻撃するような卑怯なやり方も同じです。

 

リス族の友人宅に泊ったときのことです。北タイの山岳少数民族は高床式が普通で、その住居下には鶏やら豚を育てていることがほとんどです。ある祭りの日の次の朝、早く起きたので外に出て床下を見てみると、大きな鶏小さな鶏(鶏の種類は違っていました)を執拗に追い回しつついていたのです。

 

そのとき思いました。子犬たちがじゃれあうことと同じように、いじめるってことは生き物の本能の一つなんではないのかと。

 

いじめがある種の本能である以上、社会やら学校の先生やらがどう注意・叱責したところでいじめは見えないところであるいはカタチと変えるだけあって残念ながらなくならない思われるのです。悪いこととわかってはいてもそれ以上の怒りや憎しみなどが心の中で発生してしまい言動に出てしまうわけです。

 

きっと多かれ少なかれ誰しも似たような経験は多少はあるのではないでしょうか。人は全能では勿論ないですし、欠点がない人はいないですから。

 

イエス・キリストはエルサレムで罪を犯した女性を前にして「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が最初に石を投げなさい」と言います。

 

この状況で他人を攻撃できる人たちはいなくはないでしょうが、幼い未熟な子ども想像力に欠けた人ストレスなどで物が見えなくなっている人、あるいはどこかで道が外れてしまった確信犯たちです。なぜなら普通、人は欠点はあっても同時に良心も持っているからです。

 

ところで最近のマスコミの論調はいじめる側だけが事さらに糾弾されますが、事が起きるときは多くが両方に問題があることが多く、いじめられる側にも問題・課題があることが看過されている気もします。

 

お互いが問題を解決していく姿勢がなければ事態は表面的にはともかく、本質的な解決とはいかないものです。くり返しますが一つ一つのケースが100%片方が悪いなどということは普通あまりないものだからです。

 

しかし例外として身体的欠陥あるいはADHD(attention deficit hyperactivity disorder)と呼ばれる注意欠陥・多動性障害を持つ人たちへのいじめがあります。

 

身体的にも精神的にも人と違った面を持つ人たちは攻撃の的になり易いのは事実でしょう。彼らへのからかい・攻撃などは程度・状況にもよりますが一方的に悪いことが多いと言っていいのではないでしょうか。

 

このような状況では管理者である人やら周りの人たちが何らかの手助けをするか、問題の起きにくい環境をうまく整えるか、あるいは人よりずっとより強くあらねばならないのでしょう。

 

精神医学者であったA・アドラーは「コンプレックスこそが活動のエネルギーの源である」と説き、戦国武将の山中鹿之助は『願わくは我に七難八苦を与えたまえ』と祈ったと聞きます。

 

苦労が人を成長させるものだという考え方ですね。そう考えると、身体的にも精神的にも普通の人はそれらの点で苦労がないだけ人間的に成長できず、ひょっとすると努力することが出来ない「ダメ人間」になる可能性がより高いのかもしれません。

 

僕はこう考えます。いじめる方もいじめられる方も高い志をもって、何でもいいから一つ強みのある分野を持つこと、あるいはすべての事柄を糧にして戦い・成長し続けることが大事なんだと。そしてそう生きる姿勢が、両者にとっていじめをなくし克服する一つの手がかりになるのではと。

-努力し続けることとハレとケ-

こんな話を聞いたことがあります。「死刑囚はその日までの日々を充実して過ごすのに対して終身刑の囚人はだらだらと日々を過ごす」と。このこと自体は本当か嘘かはわかりませんが、説得力がある話だと思います。緊張感のある生活とない生活が人にもたらす影響と僕は考えます。

 

子どもだろうが青年あるいは中年だろうがカタチは違えども、日々それぞれ自分なりの努力をし、(ちょっとした)喜び、あるいは苦労やストレスがあるはずです。その原因になるのはすべての世代に共通なのが人間関係であるでしょうし、また勉強やら仕事やらそれぞれ年代ごとにやるべきことの成果でしょう。それらの中での毎日はいいこともあれば、当然苦労の種になるものであるわけです。

 

子どもたちは朝学校に出て、夕方からは習い事、部活動や塾がありますし、高校生になるとアルバイトをする生徒もいます。学校では集団生活における適応能力を練っていかなくてはなりませんし、勉強もしなくてはなりません。もちろんそれらは大人になって社会に貢献するためあるいは経済力(稼ぐ能力)を身に付けるために必要なことです。

 

スポーツにも多くの子どもたちが励みますが、これは基本的に「楽しみ」の範疇にあることが多いでしょう(体を動かすことは遊びの原点だと思います)。

 

子どもたちにとっては学校の教科学習は「やりたくないこと」で、出来るだけ「遊び」たいと思っているのでしょう。それはゲームやら友達とのおしゃべりやらスポーツなようです。

 

社会人になれば多くは会社勤めや工場勤務になりますが、ここでも業績を上げるための努力が求められますし、それは報酬に反映されます。会社は大きな市場の中での競争がその会社の生き残りに関わるため、サバイバルは厳しいものになるのは資本主義社会では当然のことです。

 

会社はノルマ業務命令あるいはボーナスを出し、スタッフの士気を高め結果を出すべく努力を求めます。その方針に沿わないスタッフは場合によっては解雇されるのも市場の原理から考えれば仕方のないことです。

 

その忙しくプレッシャーもある平日から解放されて、休みの日には外食や買い物やスポーツや旅行を束の間謳歌するのです。

 

さて、自分自身で自分をコントロールしながら努力し続けることの出来る人がどれだけいるでしょうか?僕自身の経験から考えてみても、基本的に人間は怠け者だと思われます。言い換えれば、人はややもすれば緊張感がなくなりだらしなくなってしまうってことですね。

 

忙しい人が待ち望む休日も長く続けば多くの人はすぐに飽きてしまい、仮に家から一歩も出ず、誰とも会わず、何もしない生活になってしまえば、その恐ろしいほどの退屈さに下手すれば心も技も体も「壊されて」しまう人も出てくるでしょう(あるドラマで使っていた言葉ですが、『感情も(使われなければ)錆びる』わけです)。

 

仕事から離れて「毎日が日曜日」である高齢者たちについて考えて見れば、軽いスポーツや食事会あるいは旅行などを楽しみ充実した日々を送る人たちもいるようですが、人によってはなんとなく物足りないと感じる人もいるはずです。

 

僕はこう思います。健康であることが前提ではありますが、人は生きている限り何かしら緊張感をもって頑張ることが、充実感ひいては幸福感につながるんではないかと。仕事中心だった人たちは引退すれば、待ち遠しかった「休み」が味気ないものに変化してしまい、今度は退屈という苦しみの中に置かれてしまうのです。

 

夏目漱石は『倫敦塔』という小説の中で、「およそ世の中に何が苦しいと云って所在のないほどの苦しみはない意識の内容に変化のないほどの苦しみはない。使える身体は目に見えぬ縄で縛られて動きのとれぬほどの苦しみはない」と書いています。

 

僕はこう思います。充実した日々を送るために必要な条件が(適度の)緊張感なんだと話してきましたが、その緊張感には他人の存在が重要であり、それは友人であったり、先生であったり、同僚であったり、上司であったりするのだと。

 

その他人の存在は怠け者の自分に鞭打つように自分の内側にエネルギーやらやる気を生み出させうるのであって、そのことが出来、人をうまく動かす環境作りのできる人がいい先生であったり、いい上司なんだと思うのです。

 

また、その中でもライバルあるいは家族という存在はより大きいように思います。成長するためにはライバルや同志が人を切磋琢磨させるからであり、家族がいれば人はより多く戦える、つまり「自分のため」よりも「誰かのため」の方が人間は強くなれると思うからです。

 

そしてもう一つ。日本民俗学の言葉で「ハレ(非日常)とケ(日常)」というものがあります。この言葉を使って三島由紀夫は「ハレがあるからケがあり、ケがあるからハレがある」と説明しました。

 

サラリーマンの例で確認すると、必ずしも好きではない仕事という毎日(ケ)があるからこそ、週末・休日(ハレ)という非日常が楽しめるという論理です。言い換えれば 休日ばかりではハレは存在しなくなるということで、日々の苦労があればこそ休日のオフが楽しいのだということになりますね。